大善寺は、甲府に入れなかった甲陽鎮撫隊が本陣にしようとしたのですが
「徳川家康の時代から伝わる寺宝を戦火に巻き込まないで欲しい」と寺から頑なに拒否されたために諦めたそうです。
到着した時にはもう閉館していて御朱印はいただけなかったのですが、石段をあがって薬師堂を見てきました。
「理慶尼記」は「武田滅亡記」ともいわれ、尼の住んでいたこの大善寺に保管されているそうです。
勝頼の家臣たちは、勝頼を最後まで裏切ることなく守り戦死しましたが
その子供たちは後に徳川家康に重用され、江戸時代には各地の城主に任命されました。
勝頼の「宿」となった薬師堂にはその子供たちから寄進された文殊菩薩、毘沙門天が安置されています。
大善寺を少し進んだ交差点にひっそりと近藤さんの像が立っています。
柏尾古戦場跡です。
甲府城と大善寺との距離は車でも3~40分かかるのに、いったいどのように布陣して戦ったのか?
甲州勝沼の戦いを調べるにつけ
鉄の掟で統率されていた新選組が徐々に衰退していく様が何とももの悲しく
これから永倉新八、原田左之助が離隊し、流山、宇都宮、会津、函館と続いていくわけで
長い歴史の中でたった7年だけど、その生きざまは儚くも美しいものだったと思いたいです。