Travel book

待つことが嫌い、協調性がなく団体行動が苦手、計画を立てるのもめんどくさい
そんなわたしが2.5次元舞台にハマってから変わりました
物販に辛抱よく並び、知らない人に声をかけ、聖地巡礼ツアーに出かけ、京都旅行には自らルートを考え・・・
ヲタな旅行の覚書です

旅行嫌いなのに旅行記

榎本武揚・土方歳三ご子孫と巡る函館戦争足跡ツアー 2025年10月26日:無事に帰還

   

バスでの移動距離は、1日目は162㎞、15552歩。2日目は259㎞、10057歩。

楽しい時間はあっという間な2日間でした。

函館空港でお土産を買いあさり、荷物を預け搭乗手続きを済ませて気づいたら参加した方たちの姿が見えず(笑)

そういえば、愛さんがフードコートで夕食を食べようと言っていたっけ・・・と思い出し、無事に合流できました。

2日間ずっと海鮮料理ばかりだったので、肉が食べたいなぁとも思ったのですが

いやいや、最後まで海鮮で締めくくろう!と、海鮮丼をチョイスしました。

食事中にみんなでラインを交換して、またどこかでご一緒しましょうと約束をして解散となりました。

今回の旅のお供は、兼さん、国広、ヒジカタくん、そしてまんばちゃん。

出かけるときに、まんばちゃんは新選組とは関係ないしなぁ~と言っていたら

娘が「守り刀なんだから連れて行けば?」と言うので連れて行ったので、あまり天候も悪くならずよかったです。

  

行く先々で学芸員さんの解説があって、バスの中でも寝る暇もなくいろいろなエピソードが聞けて

本当に内容の濃い充実したツアーでした。

土方さん、榎本さんと共に繋がった新選組愛にあふれた新しい友達との出会いにも感謝です。

またいつかどこかで、是非ご一緒しましょう。

榎本武揚・土方歳三ご子孫と巡る函館戦争足跡ツアー 2025年10月26日:土方歳三最期の地碑

   

土方歳三の最期の地については諸説ありますが、最も有力とされているのが「一本木関門」です。

その跡地に近い若松緑地公園の中に、「土方歳三最後の地碑」が建立されています。

1869年5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され

島田魁らが死守していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立したため

歳三は籠城戦を嫌って僅かな兵を率いて出陣し、一本木関門を死守し七重浜より攻めてくる新政府軍に応戦。

馬上で指揮を執るが乱戦の中、銃弾を腹部に受け落馬し、そのまま落命したと言われています。

以前見たTV番組で、実は土方さんは味方に暗殺されたという説があることを知りました。

旧幕府軍の幹部で死んだのは土方さんだけで、その死後すぐに降伏したことが暗殺説に繋がっているようです。

たしかに、共に戦っていたはずの榎本さんはその後投獄されたものの明治政府で内閣に入ったわけで

今回のツアーで、そのあたりをお聞きしたかったのですが、どうしても聞くことはできませんでした。

わたしとしては、榎本さんが土方さんの遺志を継いで未来に進もうとしたと思いたいです。

 

よしや身は 蝦夷とふ島辺に 朽ちぬとも 魂は東の君やまもらむ

激動の時代を駆け抜け、最期まで「武士よりも武士らしく」生きた土方さんの生きざまは、誠のもののふでした。 

兼さんも国広も、土方さんの最期の日には一緒にいることはできませんでした。

一緒に、平和な日本の礎をつくってくれた土方さんに感謝しましょうね。

合掌。

榎本武揚・土方歳三ご子孫と巡る函館戦争足跡ツアー 2025年10月26日:亀田八幡宮

   

二股口、四稜郭、権現台場跡、榎本武揚像を車窓から眺めながら、亀田八幡宮に向かいます。

戊辰戦争終結時の1869年5月17日、旧幕府軍の榎本武揚、大鳥圭介らが

新政府軍の黒田清隆らと降伏の誓約を交わしました。

その協議を整えた場所が、こちらの旧拝殿であったとされています。

建物の羽目板には、直前の戦闘でついた弾痕が残されていて、激しさが窺い知れます。

2012年11月には、刀をモチーフにした「箱館戦争降伏式之地」記念碑が有志によって建立されました。

 

参加者みんなで目を凝らして、これが弾痕?それとも木の節目?と探し回ったのですが

さて、どれが本物なのでしょうね・・・

榎本武揚・土方歳三ご子孫と巡る函館戦争足跡ツアー 2025年10月26日:嘆きの松(旧檜山爾志郡役所)

  

わたしにとって、今回のツアーのメインイベントがこの嘆きの松です。

伝説では、土方歳三と榎本武揚は座礁した開陽丸をこの場で眺め、土方歳三が嘆きながらこの松の木を叩き

後日、松の木にコブができて曲がっていったと言われており、「歳三のこぶし」と呼んだそうです。

五稜郭タワーで見たジオラマのような写真を撮りたい!という夢が叶いました。

  

まずは、土方・榎本ご両人にポーズをとっていただきました。

その次に、わたしも撮っていただいたのですが、なんと!榎本さんが隣でうなだれていてくださって

これはもう家宝と言うしかない写真となりました。

榎本武揚・土方歳三ご子孫と巡る函館戦争足跡ツアー 2025年10月26日:江差・開陽丸記念館

   

松前城を後にして次は江差に向かいます。

江差の海が見渡せる、眺めの良いレストラン「れすとらん 津花館」

大きな窓からは江差町のシンボル、かもめ島や開陽丸を眼下に望む最高のロケーションです。

ランチは「にしんの親子丼」と言われていて、にしんが卵とじになってるのかな?と思っていたら

にしんの甘露煮にかずのこという親子丼で、にしんは柔らかく美味でございました。

食後にベランダに出て撮影をしていたら、ちょうど参加者のイケメンくんがいたのでモデルをお願いしたところ

快諾いただきまして、ポーズまでキメてくださいました。

LINE交換して写真を渡すという図々しくナンパしたおばさんと化したわけですが

このイケメンくんは昨夜の懇親会でも近くに座っていて、見学先でも新選組の話を熱心に質疑応答していたので

ただのヲタではなくて本当に好きなんだなぁと思って、入り口を聞いたら「るろうに剣心」だそうで(笑)

わたしが再燃したのは「銀魂」だと答えたら、さわやかな笑顔で応えてくれました。

前回戊辰戦争終結150年を記念して参加した2019年のバスツアー「鳥羽伏見の戦いを追って」では

「燃えよ剣」が入り口という王道の参加者が多かったのでイケメンくんもわたしも何か同じ匂いを感じた気がします。

   

暴風雪により北海道江差沖で座礁・沈没した旧幕府軍の軍艦・開陽丸。

沈没してから100年以上経った1974年、江差港湾に開陽丸の存在が確認されました。

それに伴い翌年から日本で初めて本格的な水中遺跡の調査が実施され、引き揚げられた遺物は

船具や武器、生活用品と様々で約3万点に及びました。

実寸大で復元された開陽丸記念館では、開陽丸が航海した時代の歴史の流れを解説したパネルと

約3,000点の引き揚げられた資料が展示されています。

音による大砲発射体験、ゲーム感覚の操船シミュレーションや砲弾の重量当て体験コーナーも人気で

ハンモック体験では、実際に寝てみて当時の船員の船内生活が体験できます。

   

ただ・・・このハンモックに寝ているマネキン船員の表情が、「遺体?」と思ってしまう出来栄えでして(笑)

ハンモックに乗ってみたいなぁと思っていたら、そこに愛さんが登場し「乗ってみたかったの~」と。

お茶目な愛さんを撮影することができたのですが、「門外不出で」とお願いされたので

ご本人にはLINEでお送りいたしましたよ。

   

11月に開陽丸青少年センター管理棟解体工事に伴い、開陽丸記念館も休館となるそうで

展示されていたパネルをご厚意でいただくことができて、榎本・土方ご両人でパネルと記念撮影です。

その後、このパネルはバスの中でのじゃんけん大会で参加者にプレゼントされました。

ま、外れたけどな(笑)

榎本武揚・土方歳三ご子孫と巡る函館戦争足跡ツアー 2025年10月26日:松前城

   

松前奉行所跡は、現在は松前町役場です。

天神坂の北、馬坂から松前城に向かいます。

土方さん率いる旧幕府軍の奇襲でわずか1日で制圧した松前城は、日本最後の旧式築城です。

まずは、御朱印をいただき城内に入ります。

      

1941年に国宝に指定され、戊辰の役や開拓使の取り壊し、太平洋戦争でも残った松前福山城天守閣でしたが

1949年6月5日未明に松前町役場から出火した飛び火により焼失してしまいます。

現在の天守閣は町民の切なる願いと、全国からの善意により1961年に再建されたものだそうです。

榎本さんとお城をバックにツーショットを撮っていただきました。

そういえば、参加者全員での集合写真も撮影したのですが、それはどうしたら入手できるのでしょうね(笑)

榎本武揚・土方歳三ご子孫と巡る函館戦争足跡ツアー 2025年10月26日:松前町法華寺

  

函館2日目、最終日です。

天気予報は雨・・・ホテルから見える空もどんよりしています。

荷造りしながら、今日はGジャンよりもコートがいいかな?と少し厚手のセーターを着て、朝食を食べに。

前回泊まったホテルは、朝から海鮮丼が食べられるような海の幸満載でしたが、ここはオーソドックスなメニュー。

でもあれこれ選んだら、トレイいっぱいで(笑)お腹もいっぱい。

   

バスは海岸線を進み、海の向こうにうっすらと見えるのは、岩木山。

松前城を横目で見ながら、法華寺に向かいます。

1868年11月5日、松前城を攻撃する土方歳三はこの法華寺に拠点を置き

南方に位置する松前藩の築島台場にも大砲を撃ち、海上からは軍艦・回天の艦砲射撃作戦が執られました。

当時の大砲でここからお城まで届くのかな?と思いましたがちゃんと届いたようで

武器の性能の差を戦術で補った土方さんは、剣豪から優秀な指揮官へと変貌を遂げていたのですね。

2019年9月、当時敵同士だった旧幕府軍と新政府軍は150年の月日を経て

「合同慰霊碑」という形で共に供養することとなったそうです。

奇しくも10月26日は、旧幕府軍が五稜郭を占拠した日であり、榎本武揚さんの命日でもあります。

それぞれが信念を持って戦いに挑んだ戦士たちが安らかに眠ることを願うこととしましょう。

   

榎本武揚・土方歳三ご子孫と巡る函館戦争足跡ツアー 2025年10月25日:懇親会「旬花」

   

        

ホテルに一旦戻り、荷物をフロントに預けて、五稜郭タワー内にある懇親会会場に向かいます。

わたしの隣には五稜郭タワーの企画室長さん、その向かいには愛さんという豪華な席順で

楽しい食事時間を過ごすことができました。

歳三さん、あなたの「一杯だけだぞ」という約束はちゃんと守りましたよ。

ここで解散となり、それぞれがホテルに徒歩で向かうのですが、一人で帰るには少し不安だったので

ラッキーピエロを横目で見ながら集団に遅れないようついていくしかなくて

いったいいつになったらわたしは土方歳三ほたてバーガーが食べられるのだろう・・・

絶対リベンジを果たさねば!と心に誓いました。

   

ホテルマイステイズ函館五稜郭では、喫煙ルームが予約できていたのでゆっくり休むことができました。

窓からは五稜郭タワーが見えます。

帰宅してから、夜の街にもう一度戻ってもよかったのではないか?とちょっと後悔もしましたが

丸1日よく歩いたので身体は正直で、明日の準備と荷物の片付けをしたらあっという間に寝てしまったわけで(笑)

榎本武揚・土方歳三ご子孫と巡る函館戦争足跡ツアー 2025年10月25日:弁天台場跡・新選組最後の地碑

   

新選組屯所跡地、称名寺をバスで通り過ぎ、本日最後の見学地弁天台場跡、新選組最後の地碑に向かう頃には

もう薄暗くなっていました。

江戸幕府が箱館湾口の防備のために、1856年から約8年をかけて築造した不等辺六角形の軍事要塞が弁天台場です。

完成した1863年は文久3年で、文久3年と言えば土方さんたちが浪士組として京に向かった年です。

1869年旧暦5月11日、新政府軍による箱館総攻撃の当日

弁天台場では箱館奉行、新選組隊士を含めた約240名が守備に当たっていましたが、新政府軍の攻撃を受け

土方さんは箱館の市街や弁天台場を救援すべく一隊を率いて一本木関門からの進撃を試みたものの狙撃され落命。

市街地が新政府側の手に落ちたことにより、弁天台場の旧幕府軍は孤立し、箱館奉行ともども降伏。

これにより新選組の戦いは終わり、函館は新選組最後の地となりました。

周囲の薄暗さがさらに悲しみを深めていきます。

そんな中、島田魁さんのモニュメントを見て、にゃんズはどうしているかなぁ?と思いました。

ティファを亡くしてペットロスになったけーちゃんが

血統書付きより保護猫のほうが逞しく長生きするだろうと選んだのが、魁です。

函館戦争を生き抜いた島田魁さんの名前をいただいたので、隊士の中でも特に推す存在です。

ここで新聞社の取材があったのですが、予定より40分ほど遅れて到着したのでずいぶん待たせてしまったようです。

いつ販売される新聞なのかなぁ?見ることができたらいいなぁと思いながらホテルに向かいました。

榎本武揚・土方歳三ご子孫と巡る函館戦争足跡ツアー 2025年10月25日:市立函館博物館

   

バスに乗り込むと思いきや、函館八幡宮を通り越し博物館に徒歩で向かいます。

箱館戦争にまつわる錦絵、実際に使われた陣羽織や洋式軍服、砲弾や銃などが展示されており

激動の時代を振り返ることができます。

   

「箱館戦争」の展示図録が再販されたということで、帰りがけに参加者が購入に殺到していました。

わたしも、当然買いましたけどね(笑)