千両松埋骨地に向かうバスの中で、参加者からの質問コーナーがありました。
「今年の2月に徳川慶喜公直筆の「誠」の書が発見されたと報道がありました。
慶喜公の静岡での隠居生活の話を聞くと文化人であったことが偲ばれるのですが
それでも佐幕派のわたしとしては新選組を見捨てた人というイメージが強く
言葉は悪いですが、どの面下げて「誠」を書いたのか?と怒りすら覚えてしまいます。
木村先生はこの書についてどのような背景があったとお考えでしょうか?」
ゲストの3人が答えてくれるというので事前にメールを送っていたのですが
第1問めがわたしの質問でした(笑)
そもそも慶喜公は「誠」という字が好きだったそうです。
誠には、義を尽くすという意味があって、慶喜さんが義を尽くすのは天皇。
上司が部下に義を尽くす必要はないそうです。
慶喜公のお父さんは徳川で、お母さんは有栖川という皇室だから
両家の関係が悪くならないよう、穏便に政権を返したということらしいです。
でも、政治にはあまり関心がなくて他人事だったようで
そういうところが新選組クラスタからするとぐぬぬとなるわけで。
てっきり明治になって反省の意を込めて描いたのでは?と思ったのに、慶喜公はやっぱり慶喜公でした。
そして、源さん率いる新選組六番隊が全滅した淀の千両松へ。
本当に道路のわきにひっそりと戦没者の墓碑が立っています。
近くの競馬場の拡張工事が行われた際に慰霊碑が削られた後、事故が続出するようになり
さらに誠の旗を持った新選組隊士の幽霊が、「もとの所に返せ!」と毎晩現れるようになったため
慰霊碑を管理する妙教寺に依頼し盛大に供養を行うとともに
工事終了後もとあった場所に慰霊碑を復元整備したところ幽霊は出てこなくなったそうです。