借りた車を返しに実家に寄ると、母がぽつんと座っていた。
仕事人間だった父は、引退したとたん家庭内のことが目に付くようになったらしく
母はかなり閉口していた。
父がいなくなって、気兼ねをせずに外出できるようになってほっとしただろうと思っていたのだが
その口やかましさでさえ、ないことが寂しいと笑う。
わたしがそんな域に達するまでにはまだまだなのかな。
父が使用していた引き出しには投函していない手紙がいくつか残っていた。
1通は、見舞いに来てくれた友人に宛てたお礼の手紙。
酸素ボンベを持っていなくては生きられない姿を見られたくなくて
だんだん外出が億劫になっていることや
飲んでいると家族がいい顔をしないことや
OB会当日に入院していて会えなくて残念だったことなどが書かれていた。
わたしの会社はこの日OB会総会の料理を受けていて
食堂ホールで会員たちが楽しそうに飲食しているその場にわたしもいた。
料理の手配から席次から全て、父はきっちりと書類で依頼してきたのに
今年は人数と金額だけが伝えられあとは例年どおりにということだけで
結局は父が作った資料を基に用意をした。
会長が父から後輩の方に代わり、その輪の中心に父の姿がないことが無性に寂しかったことを憶えている。
もう1通は、甥に宛てたもの。
岡山にいる孫の生活を気遣い見守る優しい文章だった。
そして今回は自分の学生時代のことを書こうと思うと綴られ
どうして家業を継がなかったのかといういきさつに始まり、大学生になったところで絶筆となっていた。
母によると、キリのいいところまで書き上げ後は明日と言って猫のえさを買いに外出したのだそうだ。
まさかその翌日に倒れることなど本人も思ってもいなかったのだろう。
この手紙を読むと、最後まで書いてくれていたら父の「自分史」が完成したのではないかと誰もが思う。
十数年前、父が口腔底腫瘍で入院していたとき
たまたま自分のために買った「自分史マニュアル」を届けたことがある。
書くことが好きな父の暇つぶしになるだろうと単純に思ったのだが
母は、それがまるで遺書のようになってしまうのではないか?
不治の病であると宣告しているような不快な感情だったと言っていたが。
実際父はその「自分史」のフォームでは書ききれないからと使わず
愛用している方眼コピー用紙に書き溜めていたようで、後にその原稿は1冊の本として自費出版をした。
この本には、わたしとのやりとりが書かれた部分がある。
兄は、「お前だけ登場してずるい」と笑うが
こうして今、父の手紙を見ると、わたしのことなど1行も書かれていなくて
同居していないのだから当たり前なのだけれど
「家族」の中にすでにわたしは含まれていないことが寂しい。
結婚してからというもの、夫婦で父に会いに行くのはお年始ぐらいで
それもほんの1時間もいるかいないかで、ゆっくり話をした記憶がない。
父はわたしの住むマンションにあがったことさえない。
「もう嫁に出した娘なんだから、これからは孫を可愛がる」と、笑いながら言っていたが
あまり寄りつかない娘夫婦が不満だったのではないだろうか。
そんなことを考えながら
いまだに父の死を受け入れることができない自分に気づかされる。