備忘録

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5年前の今日も金曜日でした。

地震と気づいてからどんどん揺れが大きくなるのがまるで映画の1シーンのようで
現実と受け止めるのに時間がかかりました。
デスクの下に這いつくばっていてもデスクの両側に身体ががんがんぶつかる状況で
このままここにいていいのか?外のほうが安全ではないか?と考えながら情報収集。
書庫が倒れ、電子レンジが落下し、トイレの壁や階段の壁に亀裂が入っていることを確認し、上司に報告。
その後TVで津波の映像を見ながら、次々と都内の電車が止まっていく情報に帰れないことを覚悟しました。
夕食を買いにコンビニに出かけたらすでにお弁当やパンは売り切れでした。
地震発生時けいちゃんは仕事でイベント会場にいて、お客様の避難誘導をしていました。
娘は海岸で「空から日本を見てみよう」の撮影を終えて職場に戻っていました。
携帯電話はつながらなかったのですが、SNSで家族の安否が確認でき一安心。
家族全員が災害伝言サービスに伝言していたのに、そもそも違うサービス登録していたので意味がなく
すぐにtwitterを登録したのは言うまでもありません。
深夜になって徐々に電車が動きだしたので、部長に車で横浜駅まで送っていただき
相鉄、小田急を乗り継いでアパートに帰宅したらすでに1時を過ぎていたように思います。
さぞアパート内もめちゃくちゃだろうと思ったのですが、こまごましたものが落下していた程度。
会社もアパートもライフラインには異常がなかったのが唯一の救いでした。
翌日、新幹線が動いていたので自宅に戻り、娘と涙の再会となりました。
会社では部長以外全員女性で、しかもわたしが最年長であったため落ち着いて対応することを心がけていたので
娘の顔を見たらほっとしてしまって「恐かった~~~~」と大泣きしたように思います。

新幹線は動いているものの、横浜線が不通のためアパートに戻れません。
しばらく富士の事務所にいればよいといわれて自宅から通っていたのですが
15日の22時半頃、突然ずんと沈み大きな横揺れが起こりました。
そのときわたしは娘に会社のPCに「ガンバレ日本」の画像を貼り付けてもらっている最中で
リビングで家族三人抱き合いながら震度5弱を経験しました。
マンションの6階での揺れはさらに大きく感じたと思います。
東日本に続いて、ついに東海沖地震が来た!と思ったのですが
違うと知り「もうこれが東海沖地震でいいじゃん!」と叫んだのを記憶しています。
前日、夕食を食べながら「食器棚が開かないように輪ゴムでとめておくだけでもいいらしいよ」と
言っていたにもかかわらず放置していたため、扉が開き食器が散乱し片付け終わったのは3時でした。
クライアントの工場も天井が落ちるなどの被害があり厨房が使えない営業所は弁当対応となりました。
その後、計画停電が発表され東電管轄のはずれの富士市も2度ほど停電となりました。
富士川の西側は中電管轄なので、向こう側だけ電灯が灯っていることが不思議でした。
キャンプ用品のランタンがあるから大丈夫だと思っていたら乾電池切れで
しかもすでに市内では乾電池は品切れ状態で、大阪の友人から送っていただきました。
夜の停電は、何もすることができず携帯を弄って過ごすしかありません。
考えてみたらわたしたちの生活に電気は必要不可欠です。
たった数時間がものすごく長く感じられました。
1ヵ月後、仕事で中国に出かけたのですが、日本人の入国者はガイガーカウンターの前を通らされました。
帰国する飛行機の中から見た日本列島は、神戸や大阪あたりは煌々と輝いているのに対して
関東は薄暗く、東北地方は真っ暗でした。
10月にはいわき市に出張に行ったのですが、道路は波うち、海岸沿いは荒地のまま、
空き地には廃材やゴミが山積みとなっている惨状に、復興には程遠い現状を目の当たりにしました。

震度5弱を1週間に2度も経験して以来
電車内で携帯の地震警報がなるたびにおびえました。
地震が起こるたびにもっと揺れが大きくなるのではないかと不安になりました。
それでも5年の間にだんだん被災地のことも、危機感も薄れていったことも事実です。
まだ被災地の復興は終わっていません。
日本が元気になることを祈るばかりです。

2016年3月11日 | カテゴリー : life | 投稿者 : つかちゃん