待つことが嫌い、協調性がなく団体行動が苦手、計画を立てるのもめんどくさい
そんなわたしが2.5次元舞台にハマってから変わりました
物販に辛抱よく並び、知らない人に声をかけ、聖地巡礼ツアーに出かけ、京都旅行には自らルートを考え・・・
ヲタな旅行の覚書です
Travel book
旅行嫌いなのに旅行記
京都刀剣御朱印めぐり 2019年3月30日:豊国神社
京都刀剣御朱印めぐり 2019年3月30日:粟田神社
粟田口の地は、平安時代から室町時代にかけて刀鍛冶が多く住んでいたとされ
名刀「一期一振」をはじめ数々の国宝を手掛けた天下の三名工と呼ばれる粟田口吉光や
天下五剣と呼ばれる名刀のうち最も美しいといわれる国宝「三日月宗近」を手掛けた三条宗近も
この三条粟田口に住んでいたと言われています。
いわば、審神者の聖地とでも申しましょうか。
ここでは三条小鍛冶宗近がスランプに陥っていた際、氏神である稲荷明神の狐が童子に化けて相槌を振り
名刀「小狐丸」を完成させたという逸話の残る「相槌稲荷神社」の御朱印もいただけます。
参道の脇にある「鍛冶神社」には製鉄・鍛冶の神である天目一箇神と共に
名工である三条小鍛冶宗近、粟田口藤四郎宗近が一緒に祀られています。
刀剣の神様をお祀りしているだけに悪縁を切り、良縁結びに霊験あらたかなうえに
勝ち運にも恵まれるとのことなので、チケットが当たるようお願いをしてきました。
京都刀剣御朱印めぐり 2019年3月30日:八大神社
京都刀剣御朱印めぐり 2019年3月30日:上賀茂神社
実は、壬生寺から建勲神社に移動する際に当初はバスを予定していました。
御朱印巡りをするにあたって、移動手段を詳細に調べてしおりまで作ってあったのですが
初めていく神社ばかりで不安だったこともあり、バス停の前にタクシーを拾いました。
それがなんと、ヤサカタクシー1200台のうち2台しかないという「双葉葵」のタクシー。
ドライバーがすごく親切丁寧な解説をしてくださったので1日貸切ることに。
御朱印巡りの神社以外にも近隣で寄れそうなところを案内してくれるというので
まず寄り道1つ目が上加茂神社です。
「上賀茂神社」の第42回式年遷宮を記念して双葉葵の運行を開始したそうで
タクシーのレシートを上賀茂神社の社務所に持っていくと記念シールがもらえました。
京都刀剣御朱印めぐり 2019年3月30日:建勲神社
京都の船岡山の山頂に鎮座する建勲神社は、織田信長の功績を称え明治天皇により創建されました。
桶狭間合戦の出陣の際の「人間五十年 下天のうちをくらぶれば・・・」の一節が刻まれた石碑があります。
お参りをして、さっそく御朱印をいただきます。
宗三左文字は今川義元から織田信長、徳川家康へと受け継がれ、創建時に徳川家から寄贈された刀です。
わたしが初めて観た2.5次元舞台にはまるきっかけとなったのが、この宗三さんが出ていた刀剣乱舞でした。
でも、結局宗三さんよりまんばちゃんにハマってしまったので、娘は宗三さんを「元カレ」と呼びます(笑)
薬研藤四郎は本能寺の変において焼け落ちたとも、豊臣秀吉を経て徳川将軍家が所持したともいわれており
確かな消息は不明で現存もしていませんが、昨年写しが鍛刀され奉納されています。
京都刀剣御朱印めぐり 2019年3月30日:壬生寺
鳥羽伏見の戦いを追って 2019年3月29日:池田屋
人は二度死ぬと言われています。
一度目は、肉体的な死。
二度目は忘却による死。すべての人がその人の存在を忘れてしまった時に、本当に人は死ぬ。
そういう意味では、新選組のファンがいる限り土方さんも源さんも二度目の死は訪れないと思われます。
土方さんにもそう伝えたのですが
笑って新選組の解釈は人それぞれだからというようなことを話されていました。
子供のころから歳三さんの写真が飾られていて、仏壇の中央に歳三さんの位牌があって
子孫であることを意識せずに自然に受け入れていたそうですが
同級生の親から冗談で「人切り集団の新選組か」と言われたこともあったそうです。
新選組を題材とした作品は、ドラマ、小説、漫画、アニメ、ゲーム、舞台などいろいろありますが
その中で愛さんが歳三さんはこんなイメージだったんだろうなぁと一番感じたものはどの作品なのか
お聞きしたかったのですが、まさか銀魂2をご覧になったと聞いて、それは、あかんやつ~!となりました。
といっても、わたしはこの「動乱篇」が新選組クラスタとなる入り口であるわけで
参加者にも審神者や薄桜鬼ファンも多く、結果的には土方さんイェーイ!でよかったようです。
鳥羽伏見の戦いから新選組は敗走を続けていくわけですが
誠を掲げ義を貫き最期まで武士として戦った生き様を
後世まで伝えていくのが、新選組クラスタの義務だと思った1日となりました。
鳥羽伏見の戦いを追って 2019年3月29日:淀城跡
鳥羽伏見の戦いで敗戦を決定づけた舞台となったのが、淀城です。
藩主・稲葉正邦が不在であることを理由として
旧幕府軍将兵の入城を拒絶したことで撤退を余儀なくされます。
たらればをいまさら言ってもどうなるものではないにしても
ここで踏ん張ることができていたら、歴史は少し変わっていたのでしょうか。
境内にある古図を見ながら説明をしているときに「欣浄寺」の名前を見つけて
源さんの首を埋めたと言われる場所が判明したのだそうです。
この周辺にはたくさんの石碑が点在しています。
旧幕府軍の野ざらしになった遺体を住民が見かねて供養したそうですが
古城跡の公園で楽しそうに駆け回る子供たちを見るにつけ
つはものどもが夢のあと・・・という気分になりました。
鳥羽伏見の戦いを追って 2019年3月29日:妙教寺
淀城の本丸があったとされる妙教寺には、砲弾が撃ち込まれた跡が今も保存されています。
砲弾は、本堂の壁を貫き柱を貫通して反対側で止まったそうで
位牌の並ぶ中、壁にぽっかり穴が開いていました。
不発弾だったそうですが実際に手に取るとずっしり重く、歴史の重みもまた感じさせられました。
境内には榎本武揚の揮毫による「戊辰役東軍戦死者之碑」もあり
今は閑静な住宅地となっているこの一帯が、戦禍に包まれていたことを想像すると
いかなる理由であったとしても、戦争を肯定することができない気持ちになってきます。
そういえば「先の戦争」と言えば、普通の人は第二次世界大戦を思い浮かべますが
京都人は応仁の乱を指し、会津人は戊辰戦争を指すのだそうです。