ドライバーお勧めの神社2つめ。
わたしたちが刀剣好きだと知って、宮本武蔵が悟りを開いたという八大神社に向かいます。
吉岡一門数十人との決闘を前に神頼みをすることを思い立ったが
神仏に頼ろうとした自分の弱さに気づき寸前にやめたという逸話が残っています。
宮本武蔵といえば、「五輪書」と巌流島の決闘くらいしか知らないんですけどね・・・
近くに詩仙堂があって、そういえば詩仙堂も行ったことないなぁと思いながら次へ向かいます。
実は、壬生寺から建勲神社に移動する際に当初はバスを予定していました。
御朱印巡りをするにあたって、移動手段を詳細に調べてしおりまで作ってあったのですが
初めていく神社ばかりで不安だったこともあり、バス停の前にタクシーを拾いました。
それがなんと、ヤサカタクシー1200台のうち2台しかないという「双葉葵」のタクシー。
ドライバーがすごく親切丁寧な解説をしてくださったので1日貸切ることに。
御朱印巡りの神社以外にも近隣で寄れそうなところを案内してくれるというので
まず寄り道1つ目が上加茂神社です。
「上賀茂神社」の第42回式年遷宮を記念して双葉葵の運行を開始したそうで
タクシーのレシートを上賀茂神社の社務所に持っていくと記念シールがもらえました。
京都の船岡山の山頂に鎮座する建勲神社は、織田信長の功績を称え明治天皇により創建されました。
桶狭間合戦の出陣の際の「人間五十年 下天のうちをくらぶれば・・・」の一節が刻まれた石碑があります。
お参りをして、さっそく御朱印をいただきます。
宗三左文字は今川義元から織田信長、徳川家康へと受け継がれ、創建時に徳川家から寄贈された刀です。
わたしが初めて観た2.5次元舞台にはまるきっかけとなったのが、この宗三さんが出ていた刀剣乱舞でした。
でも、結局宗三さんよりまんばちゃんにハマってしまったので、娘は宗三さんを「元カレ」と呼びます(笑)
薬研藤四郎は本能寺の変において焼け落ちたとも、豊臣秀吉を経て徳川将軍家が所持したともいわれており
確かな消息は不明で現存もしていませんが、昨年写しが鍛刀され奉納されています。
人は二度死ぬと言われています。
一度目は、肉体的な死。
二度目は忘却による死。すべての人がその人の存在を忘れてしまった時に、本当に人は死ぬ。
そういう意味では、新選組のファンがいる限り土方さんも源さんも二度目の死は訪れないと思われます。
土方さんにもそう伝えたのですが
笑って新選組の解釈は人それぞれだからというようなことを話されていました。
子供のころから歳三さんの写真が飾られていて、仏壇の中央に歳三さんの位牌があって
子孫であることを意識せずに自然に受け入れていたそうですが
同級生の親から冗談で「人切り集団の新選組か」と言われたこともあったそうです。
新選組を題材とした作品は、ドラマ、小説、漫画、アニメ、ゲーム、舞台などいろいろありますが
その中で愛さんが歳三さんはこんなイメージだったんだろうなぁと一番感じたものはどの作品なのか
お聞きしたかったのですが、まさか銀魂2をご覧になったと聞いて、それは、あかんやつ~!となりました。
といっても、わたしはこの「動乱篇」が新選組クラスタとなる入り口であるわけで
参加者にも審神者や薄桜鬼ファンも多く、結果的には土方さんイェーイ!でよかったようです。
鳥羽伏見の戦いから新選組は敗走を続けていくわけですが
誠を掲げ義を貫き最期まで武士として戦った生き様を
後世まで伝えていくのが、新選組クラスタの義務だと思った1日となりました。
鳥羽伏見の戦いで敗戦を決定づけた舞台となったのが、淀城です。
藩主・稲葉正邦が不在であることを理由として
旧幕府軍将兵の入城を拒絶したことで撤退を余儀なくされます。
たらればをいまさら言ってもどうなるものではないにしても
ここで踏ん張ることができていたら、歴史は少し変わっていたのでしょうか。
境内にある古図を見ながら説明をしているときに「欣浄寺」の名前を見つけて
源さんの首を埋めたと言われる場所が判明したのだそうです。
この周辺にはたくさんの石碑が点在しています。
旧幕府軍の野ざらしになった遺体を住民が見かねて供養したそうですが
古城跡の公園で楽しそうに駆け回る子供たちを見るにつけ
つはものどもが夢のあと・・・という気分になりました。
淀城の本丸があったとされる妙教寺には、砲弾が撃ち込まれた跡が今も保存されています。
砲弾は、本堂の壁を貫き柱を貫通して反対側で止まったそうで
位牌の並ぶ中、壁にぽっかり穴が開いていました。
不発弾だったそうですが実際に手に取るとずっしり重く、歴史の重みもまた感じさせられました。
境内には榎本武揚の揮毫による「戊辰役東軍戦死者之碑」もあり
今は閑静な住宅地となっているこの一帯が、戦禍に包まれていたことを想像すると
いかなる理由であったとしても、戦争を肯定することができない気持ちになってきます。
そういえば「先の戦争」と言えば、普通の人は第二次世界大戦を思い浮かべますが
京都人は応仁の乱を指し、会津人は戊辰戦争を指すのだそうです。
千両松埋骨地に向かうバスの中で、参加者からの質問コーナーがありました。
「今年の2月に徳川慶喜公直筆の「誠」の書が発見されたと報道がありました。
慶喜公の静岡での隠居生活の話を聞くと文化人であったことが偲ばれるのですが
それでも佐幕派のわたしとしては新選組を見捨てた人というイメージが強く
言葉は悪いですが、どの面下げて「誠」を書いたのか?と怒りすら覚えてしまいます。
木村先生はこの書についてどのような背景があったとお考えでしょうか?」
ゲストの3人が答えてくれるというので事前にメールを送っていたのですが
第1問めがわたしの質問でした(笑)
そもそも慶喜公は「誠」という字が好きだったそうです。
誠には、義を尽くすという意味があって、慶喜さんが義を尽くすのは天皇。
上司が部下に義を尽くす必要はないそうです。
慶喜公のお父さんは徳川で、お母さんは有栖川という皇室だから
両家の関係が悪くならないよう、穏便に政権を返したということらしいです。
でも、政治にはあまり関心がなくて他人事だったようで
そういうところが新選組クラスタからするとぐぬぬとなるわけで。
てっきり明治になって反省の意を込めて描いたのでは?と思ったのに、慶喜公はやっぱり慶喜公でした。
そして、源さん率いる新選組六番隊が全滅した淀の千両松へ。
本当に道路のわきにひっそりと戦没者の墓碑が立っています。
近くの競馬場の拡張工事が行われた際に慰霊碑が削られた後、事故が続出するようになり
さらに誠の旗を持った新選組隊士の幽霊が、「もとの所に返せ!」と毎晩現れるようになったため
慰霊碑を管理する妙教寺に依頼し盛大に供養を行うとともに
工事終了後もとあった場所に慰霊碑を復元整備したところ幽霊は出てこなくなったそうです。
魚三楼を出て、少し歩くと団地の入り口に碑が立っています。
慶応3年12月9日に王政復古の大号令が下されると
会津藩の命を受けた新選組は、伏見方面の治安維持の名目で伏見奉行所へ駐屯することとなり
16日には近藤勇を隊長に総勢150名が伏見奉行所に入りました。
ところがその2日後に近藤勇は伏見奉行所へ帰る途中に伏見街道の墨染で狙撃されてしまいます。
その後新政府軍の砲弾で伏見奉行所が炎上し、旧幕府軍は敗走することとなります。
御香宮神社と伏見奉行所は本当に目と鼻の先で
こんな至近距離で砲弾を浴びたらひとたまりもなかったのだろうと思うと
刀の時代が終わることを土方さんも実感していたのではないかと感じずにはいられませんでした。