子曰はく

毎年、目覚めると「今年はいい年になりますように・・・」と思うのだけれど

20代はあわただしく過ぎていき

30代は子育てに追われ

自分が何を感じ、何を思い、どんな行動をしてきたのかほとんど記憶にない。

 

子曰はく、
「吾十有五にして学に志し 三十にして立つ。
四十にして惑はず 五十にして天命を知る。
六十にして耳順ひ 七十にして心の欲する所に従ひて矩を踰えず。」

 

勉強したかどうかも、30歳で自立できたかもあやしいけれど

確かに40代になってようやく自分らしく生きられるようになった気がする。

わたしは父が29歳のときに産まれ、そしてわたしも29歳で母となった。

父はわたしが大学3年になる年に、技術指導顧問団の団長に任命され

長年勤めていた会社を一旦退職するかたちで、数年間台湾に赴任した。

わたしの会社は、来年会社の存亡をかけた大きなコンペを控えている。

その結果次第では、わたしにも父と同じように転機が訪れるのではないかと思う。

 

今年は40代最後の年。

自分の天命が何なのか、いまだによくわからないけれど

それでも40代は充実したいい時代だったと言えるような締めくくりの年にするために

頑張っていきたいと思う。

2007年1月1日

父からの手紙②

借りた車を返しに実家に寄ると、母がぽつんと座っていた。

仕事人間だった父は、引退したとたん家庭内のことが目に付くようになったらしく

母はかなり閉口していた。

父がいなくなって、気兼ねをせずに外出できるようになってほっとしただろうと思っていたのだが

その口やかましさでさえ、ないことが寂しいと笑う。

わたしがそんな域に達するまでにはまだまだなのかな。

 

父が使用していた引き出しには投函していない手紙がいくつか残っていた。

1通は、見舞いに来てくれた友人に宛てたお礼の手紙。

酸素ボンベを持っていなくては生きられない姿を見られたくなくて

だんだん外出が億劫になっていることや

飲んでいると家族がいい顔をしないことや

OB会当日に入院していて会えなくて残念だったことなどが書かれていた。

わたしの会社はこの日OB会総会の料理を受けていて

食堂ホールで会員たちが楽しそうに飲食しているその場にわたしもいた。

料理の手配から席次から全て、父はきっちりと書類で依頼してきたのに

今年は人数と金額だけが伝えられあとは例年どおりにということだけで

結局は父が作った資料を基に用意をした。

会長が父から後輩の方に代わり、その輪の中心に父の姿がないことが無性に寂しかったことを憶えている。

 

もう1通は、甥に宛てたもの。

岡山にいる孫の生活を気遣い見守る優しい文章だった。

そして今回は自分の学生時代のことを書こうと思うと綴られ

どうして家業を継がなかったのかといういきさつに始まり、大学生になったところで絶筆となっていた。

母によると、キリのいいところまで書き上げ後は明日と言って猫のえさを買いに外出したのだそうだ。

まさかその翌日に倒れることなど本人も思ってもいなかったのだろう。

この手紙を読むと、最後まで書いてくれていたら父の「自分史」が完成したのではないかと誰もが思う。

 

十数年前、父が口腔底腫瘍で入院していたとき

たまたま自分のために買った「自分史マニュアル」を届けたことがある。

書くことが好きな父の暇つぶしになるだろうと単純に思ったのだが

母は、それがまるで遺書のようになってしまうのではないか?

不治の病であると宣告しているような不快な感情だったと言っていたが。

実際父はその「自分史」のフォームでは書ききれないからと使わず

愛用している方眼コピー用紙に書き溜めていたようで、後にその原稿は1冊の本として自費出版をした。

この本には、わたしとのやりとりが書かれた部分がある。

兄は、「お前だけ登場してずるい」と笑うが

こうして今、父の手紙を見ると、わたしのことなど1行も書かれていなくて

同居していないのだから当たり前なのだけれど

「家族」の中にすでにわたしは含まれていないことが寂しい。

結婚してからというもの、夫婦で父に会いに行くのはお年始ぐらいで

それもほんの1時間もいるかいないかで、ゆっくり話をした記憶がない。

父はわたしの住むマンションにあがったことさえない。

「もう嫁に出した娘なんだから、これからは孫を可愛がる」と、笑いながら言っていたが

あまり寄りつかない娘夫婦が不満だったのではないだろうか。

 

そんなことを考えながら

いまだに父の死を受け入れることができない自分に気づかされる。

2006年12月23日

四十九日

大学4年間と父の海外赴任を加えたら、一緒に暮らしていた期間のほうがすでに短くなっているので

実家に行ったらひょっこり顔を出しそうで、すでに父がこの世にいないという実感があまりわかない。

読経の流れるなか、ぼんやり遺影を眺めていても、父のために行なわれているということが不思議に感じられた。

晩年なにも親孝行が出来なかったわたしは戒めの意味を込めてブレスレットタイプの数珠を購入した。

今後のわたしたちを見守って欲しいという願いを込めて今日まで祭壇に供えておいた。

きっと父はそんなわたしに苦笑いをしていることだろう。

頬杖をついて、タバコをくゆらせながら

どこかでニコニコしながらわたしたちを見ているのではないかと

父の姿を探しながらも、その気配さえ感じられない自分がはがゆく

もう会えないんだ、嫁に出た以上同じ墓にも入れないんだ、と思ったら涙がこぼれた。

2006年12月16日

天国への階段

日曜が初七日になるので、実家に出かけていった。

葬儀のときに母は不思議な体験をしたのだと言う。

ちょうど引導を渡す読経のなか、ゆらゆらとした赤い光が現れ

それが自分のほうに近づきながらふっと消えていったのだという。

母は、その瞬間に父が向こうの世界に行ったのだと確信したらしい。

その時わたしはといえば、後方から聞こえるいびきに閉口していたし

娘は僧侶の「喝!」の声に飛び上がりそうになっていた。

母だけでなく、わたしにも見えるようにしてくれたらよかったのにと

いつか父に会えたときに言ってあげようと思う。

 

そういえば。

火葬場でお棺に釘を打ち付けるときのこと。

通常なら参列者に少しずつ打ってもらうようにするのだけれど

葬儀が長引き出棺が30分ほど遅れたせいで身内だけで打ってほしいと言われた。

最期の務めだったのに、なぜかわたしの釘だけどんなに力を入れて打ち込んでも入っていかず

途中で兄が代わってくれた。

それも、父の最期のいたずらだったのかな?

2006年11月13日

受け継ぐもの

父の通夜と葬儀には、延べ1000人近くが参列してくださいました。

祭壇は、80以上の生花で埋め尽くされ

現役を退いた肩書きの何もない老人の葬儀としては盛大なものでした。

いくつかの関連会社を歴任したせいか仕事関係の弔電も多く

カルロス・ゴーン氏からの弔電もありました。

父は日産一筋に生きてきました。

「技術の日産」を誇りに、愛社精神が強く

佐川急便の社長からヘッドハンティングされたときも

実より名をとると言い、その意志を曲げることはありませんでした。

上司にも臆することなく発言し

仕事はワンマンだったけれど部下だけに押し付けることなく、責任の取り方を知っている人でした。

そして当時の部下の方々が、今現在重役になり活躍している姿を見ると

父の精神が脈々と引き継がれているのだと感じます。

葬儀に参列しても出棺を見送るまでの方が多く、なかなかお骨を拾うまでは残ってはいないものですが

父の友人や部下の方々はたくさん残ってくださいました。

仲間に最期まで見送ってもらえた父は、幸せだと思います。

わたしの会社の上司も同僚も友人も何人か参列してくださいました。

いつも弔事があるたびに、ただ香典を誰かに頼むことが多かったけれど

今後は自らがお悔やみに出向くように心がけたいと思います。

父の遺骨は、甥に抱えられて帰ってきました。

家族に見守られながら四十九日の法要まで自宅に安置されます。

 

自慢の父でした。

偉大な父を追い越せるとは思えないけれど、強い意志を引き継いで生きていきたいと思います。

おとうさん、ありがとう。

あなたの娘であったことを誇りに思います。

2006年11月11日

供養という商売

人が亡くなったら、市役所にさまざまな書類を出し、葬儀場を決め、菩提寺のお坊さんにお願いをする

ただそれだけの単純なことだと思っていた。

遺体の引取りと同時に会場を頼んだら、まず小ホールしかないと言われ

菩提寺に連絡すると、住職は出張で不在。

深夜に自宅に連れ帰ったものの枕経もあげてもらえず

結局代わりのお坊さんがきたのはすでに7時間以上も過ぎてからだった。

その後、住職と連絡が取れたものの、8~9日はすでに葬儀が入っていて

どうしても10~11日にしてほしいとのこと。

そのくせ、菩提寺に大変な貢献をしていただいたので

読経には僧侶を7人だとか、戒名のうえになにやらつけろとか

話を聞いていると、首を傾げたくなることばかり。

 

父は、生前菩提寺の総代をしていた。

寺を新しく建立するために、檀家からの寄付を募り、仏像を購入するために中国まで同行した。

父のお布施もベンツが軽く買えるくらいの金額だった。

わたしは総代になると何か特別な待遇やご利益があるのかと尋ねたことがある。

父は「ただ名誉だけだよ」と笑って答えた。

住職が父の葬儀を自分で執り行いたいから10~11日にしてほしいと言ってきたことは、まぁよしとしよう。

結果的には大きなホールを借りられたことだし。

だけど、普通に考えたら

「生前お寺のために尽くしてくれた方だから葬儀は盛大に行いますが、お布施は気持ちでいいですよ」

って、割引があっても罰は当たらないと思うのだけれど。

死んでもなお遺族から金をむしり取ろうとしているような気がしてならない。

父のことを考えたら、立派な葬儀を出してあげたいと思うけれど

今後の檀家としての付き合い方が戒名一つで変わってきてしまうのであれば

祖父と同じ居士でいいのではないかと感じてしまう。

「お気持ちだけで」という言葉の裏に潜む言い値に明朗会計を求めるほうがおかしいのだろうか。

2006年11月9日

父からの手紙

母が探し物をしていたら、父が使っていた引き出しの中から甥宛ての書きかけの手紙が出てきた。

父は3人いる孫のなかで、唯一男の子である甥を特別可愛がっていた。

岡山の大学に行ったきりなかなか帰省しない甥を心配して何度も手紙を書いているのは知っていたのだが

甥は「読んだよ」「届いたよ」という電話をする程度で1度も返事を書いたことはなかったらしい。

自動車会社で技術系一筋だった父らしく

便箋の代わりに図面を作るときに使用するトレーシングペーパーを愛用していた。

祖父を失ってしょんぼりしている甥がこの書きかけの手紙の存在を知ったら、もっと悲しむだろうと

この手紙は1周忌のときまで封印しておくことになった。

 

手紙といえば、わたしも学生時代に父から何度かもらった。

大学3年になるとわたしは寮を出て下宿生活を始めたのだが

同時期、父は仕事の関係で海外赴任となり、たぶんわたしから届く手紙を楽しみにしていたのだろう。

「たまには便りぐらい出したらどうかね?」

父の文面の最後を読んでわたしも甥と同じだったんだなと苦笑いだった。

 

今夜は、何度も何度も父からの手紙を読み直した。

父の言葉どおり

相手の心を大切にするあたたかい思いやりを忘れない

いつまでも自慢の娘であり続けたいと思う。

2006年11月8日

眠るように

昨日11時ごろに、携帯がなりました。

ふだん仕事中にはあまり電話をとらず、時間が出来たときにかけ直したりすることが多いのですが

中途半端な時間にかかってきた実家からの電話だったので妙な胸騒ぎがして出てみると

近所のおばさんの声で、父がまた救急車で運ばれたのだけれど

今回はどうも状態が尋常ではないからすぐに帰ってきてほしいとのこと。

浜松の営業所から病院までは、およそ2時間。

その間に何回も義姉や姪から電話が入り、父の容態がどんどん悪化していくのがわかります。

わたしは、たぶん父の最期には間に合わないだろうと思い取り乱すことがないようにと覚悟を決めました。

 

今朝、父は整形外科に行こうと準備をしていました。

急に、「目が回る、気持ち悪い」と座り込み「頭の中が真っ白になっていく感じだ」

という言葉を最後に、意識がなくなったのだそうです。

わたしが病院に着く前に、すでに3度の心停止があり自発呼吸もできない脳死状態でした。

それでも、わたしが到着後、心拍数も血圧もあがり

岡山にいる甥や東京にいた娘が到着後は、数値も安定し

小康状態が続くようになったのでひとまず自宅に戻ってきたのでした。

深夜に病院から戻ってきて、お風呂に入っていると病院から呼び出しがあり、再度父のところに向かいました。

帰るときは112-66と安定していた血圧があっという間に60以下に落ち、危険な状態が続いていました。

昼間病室に入ったときに、病状について説明を受けました。

すでに意識がなく、人工呼吸器をはずしたらそのまま終わると。

このままの状態でも、もって数時間ということでした。

父は入院するたびに余計な延命措置は必要ないと言っていました。

父の意思を尊重するのであればこの装置ははずしてあげたいと思いました。

だけど、誰もそれを許してはくれませんでした。

ただこのまま静かに逝くことを見守っていくしかなかったのです。

 

11月7日 午前2時30分。

父は眠るように77年の生涯を閉じたのでした。

2006年11月7日

最高傑作

祝うべき本人が不在な誕生日を迎えるとは、思ってもいませんでした。

今頃は、大学の友人たちと八景島で楽しく遊んでいるのでしょう。

 

そこにいるだけでぱっと明るくなるような世の中に彩りを与えることのできる存在で

人の心の痛みや喜びを素直に受け止めることのできる人になってほしい

 

そんな思いを込めて命名したのですが

最近「彩」という字は芸術に関係した字だったのだなと実感しています。

進むべくして進んだ道だったのだと。

わたしは、幼稚園児の兄が通うお絵かき教室に連れられていくうちに

自分も同じようにやってみたいと始めたものの兄のような才能はなく挫折した人間です。

それに比べて、けいちゃんの家系には芸術に関与した人が多くいます。

結婚前に住居のインテリアについて相談していたときに

わたしがイメージしたとおりにさらさらとデッサンしたけいちゃんに驚いたのですが

義兄は日大芸術学部卒だったし、武蔵野美術大学卒の従姉妹もいたし

義父は美術の教員免許を持ち今でも自宅にアトリエをつくり絵を描いている人です。

凛はたぶんその血を純粋に受け継いだものだと思います。

江原啓之によれば、子供が親を選ぶといいます。

スピリチュアル的に見ると、子供の方に選択肢があり

自分の魂が一番成長しやすい母体や環境を選択して生まれてくるのだそうです。

芸術的な才能をほしいと願っていた母親と、芸術的な才能に恵まれた環境にいた父親を選んで

自分が望むことを受け入れてくれる環境があったから今があるのだと思います。

 

誕生日おめでとう。

自分の才能を信じて、目指した道を進んでいってください。

わたしたちはずっとあなたのファンでありサポーターなのですから。

2006年11月5日

学校とは

高校の履修不足が問題になっている。

静岡県下でも27日現在、20の公・私立高校で4306人の未履修が判明している。

今頃になって補習をしなくてはならない受験生も気の毒なものだ。

娘は私立の進学校に通っていたが中・高6年一貫教育であったため

すでに中3の後期には高1の授業が始まっていた。

週休2日制では授業時間が足りず、補講と称して土曜も授業があった。

娘は美術系のクラスにいたので

高3になると理数系クラスが詰め込んでいる時間に

木曜のみ午前中で終わり、その時間を美研に通えるようになっていた。

公立と違って私立はカリキュラムを独自に作れるのだなぁと思っていた。

小学校の頃は、運動会でも順位をつけず

中学校では成績順位をたとえば1~10番はAランクとかいうように

アバウトな位置づけしか知らせず

「ゆとり教育」を推奨している反面、受験体制はますます激しくなる。

高校になるといきなり学年順位が出現する。

学年半数以下は教師も相手にせず、私立や推薦よりも国公立を目指せと言い

あたかも高校は大学予備校のような状況になりつつある。

なぜ勉強しなくてはいけないのかという根本を教えてはいない。

いい高校からいい大学に進学すればいい企業に就職でき、将来は安泰。

そんな図式は、終身雇用制度が崩壊した今、何の意味も持たない。

 

「夢が叶うと、それが職業になるんだね」

モト冬樹のことばである。

本当にやりたいことがあれば、誰に命令されずとも自分で努力するものだ。

本来学校は、子供に無限の可能性を教える場所なのではないか。

勉強という媒体を通して、自分の中に秘められた可能性を見出すのではないか。

大学生になって、高校時代とは全く違って意欲的に取り組む娘を見ていると

やりたいこと、なりたいものを見つけられた娘は本当に幸せだと実感する。

 

追記

心配していたとおり、娘の母校も(わたしの母校でもあるのだけれど)

2年生の世界史Aと日本史Aで履修漏れが発覚。

昨年度の2年生でも同様の履修漏れがあり、対象人数は計327人。

「授業時間が不足しており補習が必要と判断した。

当初は履修はしているので問題ないと思った」と言う。

04年度よりというから娘の学年も該当しているってことなのかしらん?

確かに、あの履修表はわかりにくかったし。

だけど。

最初は問題なしとしていたというのも、なんとも情けない話。

2006年10月30日