最近、邦画がなかなかおもしろい。
まだ観てはいないが「地下鉄に乗って」のサイトを見ていたら
「過去行きBBS」というのがあって、つい書き込んだ。
22年前の自分に
「辞表は出すな。その仕事は一生の仕事になって今でもちゃんと頑張っているから回り道をするな。」
と言いたい。
戻れるものなら戻りたい時代がいくつかあって、だけど現実にはそこへ戻れるわけではないのだから
後悔がないように、精一杯頑張っていきたい。
最近、邦画がなかなかおもしろい。
まだ観てはいないが「地下鉄に乗って」のサイトを見ていたら
「過去行きBBS」というのがあって、つい書き込んだ。
22年前の自分に
「辞表は出すな。その仕事は一生の仕事になって今でもちゃんと頑張っているから回り道をするな。」
と言いたい。
戻れるものなら戻りたい時代がいくつかあって、だけど現実にはそこへ戻れるわけではないのだから
後悔がないように、精一杯頑張っていきたい。
mixiの昭和30年代生まれのコミュに参加している。
同世代の考え方や、TVや子供の頃の遊びなど 懐かしい話題がいっぱいだ。
昭和47年から始まったNHKの少年ドラマシリーズは
「タイム・トラベラー」「怪人オヨヨ」「暁はただ銀色」「夕ばえ作戦」など
当時中学生だったわたしが毎回楽しみにしていた番組だった。
その影響か、筒井康隆、小林信彦、星新一、光瀬龍、眉村卓らのジュブナイル作品に、どんどんはまっていった。
まだ放送用ビデオテープが貴重な時代で繰り返し使用していたので、NHKにもほとんど残っていないらしい。
今見てもきっとおもしろいだろうに、残念でならない。
おもしろいといえば、この時代は深夜放送が全盛期の頃。
「オールナイト・ニッポン」「セイ・ヤング」「パック・イン・ミュージック」
それぞれに個性あふれるパーソナリティがいて、勉強するわけでもないのに、毎晩徹夜の生活だった。
夜に強いのはこのころの習慣からなのだろうか。
深夜ではないけれど、一番記憶にあるのが「たむたむたいむ」で
かぜ耕士の軽快なトークとリスナーのはがきに、何度肩を震わせながら笑いをかみ殺したことか。
わたしも2度ほど手紙を読まれたことがある。
でも、たぶん一番の傑作だったのが「茶色の少年」の話だろう。
今でも憶えているのだから、相当インパクトがあったんだろうな。
何が言いたいのかというと。
最近スカパーのミステリチャンネルで 「なぞの転校生」を放送していることに気づいて
チャンネルを合わせたら、なんと最終回だったというまぬけな話。
9月3日に予定されている防災訓練の準備中
職員が誤って防災無線で警戒宣言のテープを放送してしまったことで
住民からの問い合わせが殺到したとニュースで報じていた。
夕方に東京湾を震源とする地震があったばかりなので
街頭に設置されている防災無線のスピーカーから
「中野区で震度5程度の揺れが予測される」 「テレビ、ラジオに注意し、落ち着いて行動してください」
などと放送されたら、そりゃびっくりするわけで。
中野区が震度5なら、震源地に近いわたしの住む街なんかどうなっちゃうの?
東海沖地震に加えて富士山噴火も起こるなどと噂されているだけに、逃げ場などどこにもないじゃん。
「死ぬまでにしたい10のこと」という映画がある。
余命2ヶ月の宣告をされた2人の娘をもつ主人公が
死ぬまでにしたいことの秘密のリストを作りそれを実行していくというストーリーだが
健康寿命の話を聞いたときに、実はわたしは非常に不謹慎なことを考えていた。
病気になっても10年生きなくてはならないのなら
いっそのこと「気づいたら手遅れでした~」みたいなほうがいいかもって。
告知されてからかなり凝縮された生き方が出来るんじゃないかって。
ただし、煩悩のかたまりのようなわたしには 「したいこと」をたった10項目に絞り込めるはずもなく
あれもしたい、これもしたい、と 最終的には「まだまだ死ねない!」って思うのではないかと(苦笑)
やはり日頃から健康管理には気を使いましょうね。
天災にも対応できるよう、準備をしておきましょうね。
などと、もっともらしいことを言ってみたりして。
今日は、せなの命日です。
せなは、娘が幼稚園のころに飼いはじめたアメリカンショートヘアです。
糖尿病を患い、インシュリンを投与しながらがんばっていたのですが
全盛期は9kgあった体重が4kg程度に減ってしまい、抱き上げるとすごく軽くなっていて
この夏は乗り越えられるのだろうか? 来年まで持つのだろうか?と、心の準備はしていたつもりでした。
前日仕事から帰宅すると、せなが動けなくなっていました。
肉球をさわると冷たくなっていて
バスタオルでくるんで、いっしょうけんめいなでて温めました。
せなは、冬寒くなっても、ふとんの上には来るけれど
毛布とかタオルとか、身体にかけられることを嫌がったのですが
バスタオルでくるんでも、ぐったりしていてたぶん朝までもたないと思っていました。
だけど、ずっとなでていたら、体温も上がり、呼吸もおちついて
ひょっとしたら、台風のために家中窓を閉め切っていたため、熱中症にでもなったのかな?
などと思ったりして、いつのまにかみんなで眠ってしまいました。
朝、目覚めると、わたしの隣に寝ていたはずだったのに
ちゃんとキッチンのご飯のお皿の前にせなは、ちょこんと姿勢よく座っていました。
いつものように注射をして、ごはんを食べ、お水を飲み
リビングのところまで歩いてきたので
わたしは、ほっとして、出勤する準備をしていたのですが
廊下との段差でつまずいたまま、また動けなくなっていました。
昨夜のようにぐったりとしているせなを、家族にまかせて
出勤するために駐車場まで降りたところで、娘から電話がありました・・・
13歳の大往生でした。
昨夜すでに泣き疲れていたのか、涙は出ませんでした。
まだ温かさが残るせなを、わたしは何度も何度もなで
最期のお別れをして
けいちゃんにあとのことをお願いして、仕事に向かったのでした。
わたしは、せなの最期に立ち会えず、火葬場にも行けず
せなの死をなかなか受け入れることができませんでした。
1年経ってもどうしても心の整理がつかないのです。
せなはダイニングの椅子に飛び乗る時に
勢い余ってテーブルの裏側にコツンと頭をぶつけることがありました。
ときどき、もうせなはいないのにそのコツンという音が聞こえるのです。
そのたびにその姿が見たいと思うのです。
会いたいよ、せな。
昼食を食べてから、娘の友人宅へ送っていこうと自宅を出たのですが
お目当ての店は駐車場から車があふれている状態だったので、しぶしぶ近所のラーメン屋さんへ行きました。
すでに1時を過ぎていたのですが、店内はけっこう混雑していました。
テーブルのチャイムを押すと店員がオーダーを取りにきたので
メニューを見ながら話し始めると、なにかおかしい・・・
ふと顔を上げると、隣の席のおやじがその店員にオーダーをしているのです。
あらま、わたしったら早とちり!
だけど、明らかにわたしたちのほうが先に席についていて
隣の親子連れは入ってきたばかりなのに?
そのおやじはわたしが苦笑いをしているのに気づき 「隣のほうが先だったけれど・・・」とか言っていたのですが
ちょうどもう一人の店員が通りかかったのでオーダーはそちらに頼みました。
バイトの子供だから、きっとまだ慣れないんだろうとその時点ではまだ余裕だったのですが
水をもらおうとチャイムを押すと、またその店員がやってきました。
ところが、またしても
隣のテーブルのおやじのオーダーを受けているのです。
「ねぇ、何度も呼んでいるのに隣に行くって、どういうこと?( `o´)ノ」
わたしといっしょに食事に行くと、周囲の人はいつもハラハラします。
店員の応対が悪いと、容赦なく怒り出すからです。
「お待たせしました」とか言われても 「ほーんと、すごく待ったわよ」と答えちゃうし
何度も呼んでもなかなか来なかったりすると、店を変えてしまうし
レジで文句を言ったことも何度もあるし。
だけど、それはわたしが同じような職種についていて
入店してから出るまでお客様を満足させることがサービスの基本だと思っているので
言われたほうはたぶんクレームとしか感じないだろうけれど
いわば、愛のムチとでも思ってほしいくらいです。
わたしだって、混雑しているときにやみくもに怒るわけではなく
あまりに手際が悪く、気が利かない場合に限って注意をしているだけのこと。
ひょっとしたら、テーブル番号とチャイムが逆になっていたのかと思います。
だって、あのオヤジ、一度もチャイム押さなかったし。
だけど。
たぶん、あの店にはもう二度と行かないと思います。
注意をされたのにもかかわらず、レジで謝罪の言葉ひとつない無神経な店員では
今後の改善もなにもないであろうと思われるから。
こうして、クレームの処理を見誤ると、客をなくしていくのですよ。
これが、まさしく「グッドマンの法則」とでも言うのでしょうか。
食中毒警報が発令されたと連絡があったのは16:30過ぎ。
11時に発令された警報の電話連絡が、支部長が留守だったために遅れたとのこと。
いまさら連絡網を回すこちらの身にもなれって感じ。
さっそく、支部長のところに抗議の電話。
それから保健所にも報告。
ところが、保健所ではFAXを送るだけで、その後の確認はしていない。
送るところがたくさんあるからだって。
それが仕事じゃないの?
普通、連絡網って最後に発信者のところに戻ってくるよね?
FAXを送ったら、届いたかどうかって確認もするよね?
さんざんあーだこーだ言っておきながら
連絡ミスは集団給食協会内部の問題だろうと罪をなすりつけ、保健所は関係なく健康増進課が担当だと逃げる。
それじゃあ、そっちに電話をつなげろと言うと
次に出てきた人はわたしのクレームをひととおり聞いてから自分は担当ではないからわからないと言い出した。
じゃあ、最初から担当者をとっとと出しやがれ!!
1時間後、担当者という若いおねーちゃんから電話をもらった。
ホントにお役所仕事だよねと、思わずいやみを言ったのだけれど
なんだか頼りないっていうか、ことの重大さがわかっていないというか。
結局、問題は何も解決していない。
たらいまわしって、こういうことなんだなぁと実感。
業種がら、女性が多い職場にいるのはしかたがないのだけれど
今までいくつもの会社に所属してきて思うことは
女って面倒くさい。
「あなたがやっちゃうから悪いのよ」
パート栄養士に何度となく言われた言葉。
たとえば出勤するとすぐコーヒーをおとし、自分が飲むついでに事務所にいる上司の机に置くことも
事務所を掃除したりごみを捨てにいったりすることも
来客にお茶を出すことも
人手不足で、1人の仕事量はその許容量をはるかに超えていて
定時で帰れることなどほとんどないのに仕事をまにあわせてしまうことも
休んだパートのかわりに現場の応援に行くことも
休日出勤の宴会の手伝いも
できないと断ればいいものをやってしまうから悪いらしい。
誰かが手を出すと、事務所全員が順番でやらなくてはならず
そんな余分な仕事が自分にまわってきたら困るというのが本心らしい。
パートは労働時間が限られていて電話の応対さえ出たら自分の仕事が増えるから
そんなことは社員にさせればいいとよく言っていた。
ふだんは偉そうなことを言っているのに
都合が悪くなると「わたしはしょせんパートだし」と逃げるのが常套手段。
事務所内のトラブルはいつも彼女の一言から始まりそれを何度尻拭いしたことか。
最近の会社は、パートも契約社員も1年ごとに契約更新が行われる。
次回の更新打ち切りや見習い期間内での契約破棄など
今の会社ではよほどのことがない限り直接本人に宣告し実行されたことはない。
だけど、わたしは以前の会社で厳しい現実を何度となく見てきた。
仕事ができないものは排除される。
もともと「わたしにはできない」と言うことも、相手に「できない」と思われることも
わたしのプライドが許さないところがあって
そういう危機感のなかで、自分に与えられた仕事をこなしてきた。
自分のことは自分が誰よりもわかっていて
他人にあれこれ評価されることはおもしろくないことだけど
上司に対して臆することなく対等に自分の意見が言えるのも
多少の無理をしてでも、やるべきことはやってきているという自負があるから。
思っていることを全て歯に衣着せずに話せていたら、誤解することもされることもなかったのだろうか。
口先だけの人に言いがかりをつけられる筋合いはない。
今までのフォローがなければ、すでに再契約などなかったはず。
ただ黙って素直に仕事を手伝ってくれる人がほしいと言っただけなのに
こういう結果になってしまって
明日また顔をあわせて、あれこれ騒がれそうで、面倒くさい。
満開の桜のなか、期待に胸をふくらませてくぐった正門
慈愛に満ちたまなざしで両手を広げ迎えてくれたマリア像
教会の解体工事の騒音を聞きながら行われた古い講堂での入学式
途中で切り替わった新しい制服
体育祭、文化祭、ミサ、修学旅行
楽しいことも苦しいことも共に支えあった友達
手を差し伸べてくださった恩師
新校舎建設のためにずっと工事が続くなかでの学園生活
今日がいよいよ旅立ちの日です。
輝く未来へと踏み出すあなたへ、大好きなことばを送ります。
この道より われを生かす道なし この道を歩く
卒業式の祝辞のことばにあったように
これからは自分で決断しなくてはいけない状況が必ずあります。
あなたが信じる道を、堂々と自信を持って進みなさい。
もし迷ったときにはちょっと深呼吸して、うしろを振り向きなさい。
そこにはいつもわたしたちがいるから、心配しないで進みなさい。
あなたの人生がいつでもその名前のように
彩りのある人生であってほしいと願っています。
卒業おめでとう。
母校の校訓『恥を知れ』の意味は
決して他人に対して言うことではなく、あくまでも自分に対して言うことで
人に見られたり、聞かれて恥ずかしいようなことをしたかどうかと自分を戒めること。
修養を積み、自分の人格を高めていく努力を怠ってはならない。
深い知性と気高い品性をそなえた女性を育成したいという創立者の理念です。
今日は、ゼミの教授がこの3月に退職されるため謝恩の会が開催されました。
大学卒業後、わたしは1度も大学に足を運んだことがなく
結婚式に祝辞をいただいて以来、実に20年ぶりの再会でした。
教授は50年にわたって、栄養士の育成に貢献なさっているのですが
「みんなといっしょに仕事ができる人、自信を持って仕事ができる人」を育てることが理念であったと
最後のご挨拶の中でおっしゃっていました。
当時は、国家試験免除で卒業と同時に管理栄養士の申請ができました。
その分、選択肢のほとんどないカリキュラムがびっしりの授業でした。
卒論だけは選択科目となっていて
クラスには60人以上いたのに、卒論を選択したのはほんの数人でした。
わたしは、「こどもの虫歯と食生活」という課題を選択し、教授に大変お世話になりました。
当時はまだ助手だった先生も、助教授として活躍されていて
ご挨拶に名刺を持って話しかけると、ちゃんと名前を覚えていてくださいました。
今日参加したわたしたち同級生5人全員が資格を生かした仕事を続けていて
教授にとって誇れる卒業生であると褒めていただきました。
わたしはずっと学歴にコンプレックスを抱いていました。
それは進学した大学が、わたしが望んだ学校ではなかったからです。
同じような管理栄養士専攻のある大学の中でも偏差値が低く
高校時代は英語が苦手だったわたしが、ここでは優等生になってしまうし
個性が強くまとまりのないクラスでした。
今日参加してみて、あのころは気づかなかったのですが
わたしはこんなにもいい指導者、友人に恵まれていたのだと、大学から足を遠ざけていたことを恥じました。
先輩の社会に出てからの貢献度、また後輩たちの頑張りで、今ではかなり上位の偏差値になっています。
今後は、胸を張って卒業生であると言いたいと思います。
世の中のしくみなどに興味のない高校生にとって 、将来を考え、進路を決定することはかなり難題である。
幼いころからの夢があって、やりたいものが決まっていて
その夢に向かって頑張る理由がわかっている人などほんの一握りであって
たいていは、自分の学力のレベルに見合った大学を探し
そのなかでなんとなく受かったところに進むのではないのだろうか。
わたしもそんな大多数の中の一人であった。
夢はあくまでも夢であって実現できるほどの努力もせず、ひとつずつ選択肢から切り捨てていく。
そうして残ったものが 「何か将来役に立つ資格の取れる専攻を選ぶ」ということであった。
教室でのなにげない会話の中で
「薬学部に行って痩せる薬を発明する」という友に対して
「それなら、わたしは食べて痩せる栄養学を学ぶ」と答えた一言が
管理栄養士という職業を選ぶきっかけとなった。
大学進学率99%という県下でも有数の進学校であったけれど
まだ当時は短大が主流で 「女が4年制大学にいくなんて・・・」という風潮のなか、わたしは上京した。
就職してからもしばらくはこの風潮に悩まされるわけだが、その話はまた次回に。