焼きそば

何年か前に「富士宮やきそば学会会長」という肩書きの入った年賀状が届いた。

受け取ったときには、いったい何のことなのかわからず

正月早々つまらないギャグを書いて・・・と夫婦で笑っていたのだが

それが6年後に217億円もの経済波及効果をもたらす活動になるとは誰も想像できなかっただろう。

この「富士宮やきそば学会」の会長の渡辺英彦氏はけいちゃんの中学・高校時代の友人で

ひょんなことからやきそばによる町おこしを成功させた立役者でもある。

彼の出版記念パーティー&同窓会が開かれるということでけいちゃんは司会をすべく出かけていった。

わたしは、上京するまで普段食べている焼きそばが地域限定の独特な麺であることに気づかなかった。

1人暮らしを始めて、スーパーで「マルモ食品」の焼きそばを探したのに

どこにもなくて、初めて富士・富士宮地区だけの食材だと知ったのだ。

富士宮やきそばの麺の特徴は、麺のコシの強さにある。

蒸し麺を使った焼きそばは、わたしには「安っぽい味」としか思えない。

高校時代、友人が持ってくる焼きそば弁当がおいしいと評判になり

わたしとしてみれば食べ慣れた味なので、何故彼女の家の焼きそばばかりが評判になるのか不思議だったが

それが蒸し麺と富士宮やきそばとの違いだったことに気づくのもかなり後になってからのことだった。

富士宮やきそばが話題になり、学会会長がメディアに出るようになると

学生時代のイメージとあまりにかけ離れているので、どうにも調子が狂う。

実は、わたしはけいちゃんより先に彼を知っているのだ。

知っているというよりも、わたしにとって「渡辺英彦」という名は憧れの人の名前であった。

小学4年から始めた習字の教室で使っていた教則本に

優秀な作品として写真入りで掲載されることは誰もの目標であったのだが

この常連に「渡辺英彦」という名前があったのだ。

いったいどんな男の子なのだろうとずっと気になっていたのだが

よもや、中学生になってその本人と知り合うとは思ってもいなかった。

当時はすごく真面目で頭のいい人というイメージが強く

オヤジギャグをかます会長になるとはね・・・

しかし、彼の著書「YAKISOBIBLE・ヤキソバイブル」には

旧約聖書ならぬ旧焼聖書などの

オヤジギャグと紙一重な遊び心のあるセンスのよさがちりばめられている。

G麺だとかミッション麺ポッシブルとかのネーミングが町おこしの成功に

一役買っていることはまちがいない。

言葉というのは、本当に不思議だと思う。

こうしてわたしも毎日日記を書いているものの

はたして誰かをクスリとでも笑わせることができているのだろうか?

文才というものがもっとあればいいのにと、痛切に思う。

2007年5月20日

トラウマ

独身時代に入部していたボウリング部の部長から

知り合いのお嬢さんを食堂で働けるよう面接をしてくれないかと電話があった。

このお嬢さんは現在違う会社で調理師として働いているのだが

ボウリングの遠征があるため土日の休める会社に転籍したいのだという。

なんでも高校時代に国体にも出場したことのある有望株だそうで

部長はなんとか彼女を自分の会社に入部させたい思惑があるようだ。

 

わたしも実業団時代は、県強化選手に選ばれていた。

最終予選前夜に指を負傷したせいで、選考会途中で棄権するまで国体はほぼ手中にあった。

その後妊娠が発覚し、結局わたしは退部したのだが

実は、生まれてくる子供のために潔くあきらめたわけではない。

国体に出場するという大きな夢が自分の不注意でこぼれおちていったとき

ボウリング部のI先輩に東京での大会に出ないかと誘われた。

この大会は、市のスポーツ祭の大会と開催日が同じで

前年I先輩とダブルスを組み優勝しているため

ディフェンディングチャンピオンとして出場しなくてはならなかったのだが

迷った末に、東京の大会を選んだのだった。

わたしは、国体に出られない悔しさを晴らすかのように攻め、新人戦で優勝することができたのだが

それがスポーツ新聞の記事となり、部員の目にとまることになる。

部として出場するように言われていた大会を蹴って

違う大会に出ていたのだから、みんなが怒るのも無理はない。

I先輩は部内で一番強く、誰もが彼とチームを組みたがっていた。

彼と組めば、必ず入賞できるからだ。

当然、非難がわたしに集中した。

誰もわたしをかばうことはなく、部長も部員の手前があるからと静観したままだったが

ただI先輩だけがお咎めなしというのが、わたしをさらに失望させた。

わたしが退部届けを出したのは、その日のうちであった。

この最後の大会中、すでにわたしは妊娠していてそんな状態でよく優勝し、子供も無事だったものだ。

「お前は、今でも投げてるのか?」

「遊びでたまに行くくらいですねぇ」

「また始めたらどうだ?」

「もうこの歳では昔のようにはいかないでしょう?」

「何言ってるんだ、若い人にはない『経験』というのがものを言うんだぞ」

部長に誘われるたびに、もう一度頑張ってみたいと思うけれど

そのたびにあのときの悔しさと失望感がよみがえり

決断できず、踏み出せないままでいる。

2007年5月14日

前兆

父の葬儀の後に購入した腕輪念珠の糸が切れた。

切れたと言っても数珠がばらばらになってしまったわけではなく

縒り糸の2本が切れ、数珠から飛び出ているのだ。

あまり強いゴムではないので、水や汗に弱いらしい。

そういえば、先週うっかり数珠をつけたまま入浴してしまったことが原因か。

しかし事務所で糸が切れたことを言うと

「最近お墓参りに来ないなぁ・・・と思っているんじゃないの?」とか

「母の日と父の日と間違えて、妬いているんじゃないの?」とか言われ

たしかにお墓参りに行っていないし

娘との会話のなかで、せなの話のついでに父の話が出た程度で

忙しさにかまけてすっかり記憶から遠ざかっていたことに気づいた。

仕事帰りにお寺に寄ると、供花はすっかりしおれていた。

掃除をしていてあちらこちらになめくじがいることに気づいたが

殺虫剤もないので、ほうきではらってあげるくらいしかできなかった。

帰宅してから母にその旨を電話すると

「そういえばお父さんはなめくじが大嫌いで、いつも大騒ぎしながら駆除していたっけ。」

と、笑った。

 

あぁ、そうか。

数珠が切れたのは、なめくじをどうにかしろっていうサインだったのか・・・

親不孝だったことに対しての戒めの数珠として購入したのに

いつのまにか身に着けていることで、きっと父が守ってくれるだろうという身勝手な感覚でいた。

反省、反省。

やぶ蚊にあちこち刺されて痒いのも、父からの「げんこつ」代わりなのかもしれない(笑)

2007年5月14日

花より団子

初めてもらうバイト料でミスチルのCDを買うとはりきっていた娘が

結局初めて買ったのは、母の日のプレゼントだった。

ハンドクリームとバス用品。

昨日、いっしょに買い物をしていてお花屋さんを通るたびに

かわいいアレンジメントや鉢植えが置いてあって

「やっぱりお花にすればよかったなぁ・・・」とつぶやく娘。

どうやらこのプレゼントのせいで、ミスチルが買えなくなってしまったらしく

けいちゃんにCDのおねだりをしていた(笑)

そんな事情もふまえつつ、なんだかもったいなくて使えなさそうだが

今夜はさっそく、泡々お風呂を楽しもうと思う。

ありがとう。

サボテンさえ枯らす母にお花はもったいないと思うよ。

っていうか。

わたし、カーネーションは好きじゃないし。

2007年5月13日

Uターンラッシュ

長期休暇のUターンラッシュがTVで放送されるたびに

よくこんな渋滞の中出かけようと思うよなぁ・・・ と同情していた。

我が家は、両方の実家が車で10分足らずの位置にあるので里帰りがビッグイベントになることもない。

「おばあちゃんちに行く」という友人の話を聞くたびに子供の頃はずっとうらやましいと思っていた。

父は長男だったから、母方の実家に出かけることはあったが、旅行という距離ではなかったからだ。

 

娘を送って行くために東名にのった。

案外すいてるねと話していたら、秦野中井より渋滞9kmという表示。

その後進むたびに15km、19kmと渋滞が延びていく。

結局、厚木でおりて246号線を通ることにした。

今まではUターンラッシュが我が身に降りかかるとは思ってもいなかった。

考えてみたら、凛が1人で電車で帰れば1630円で済むことで

わざわざ家族全員で往復することもないだろうに、本当に父親というものは娘に甘いものだ。

父の車を返しに実家に寄ると

「おいて帰ってくる道中は、なんとなく気が重いよね」と、母に言われた。

わたしも大学1~2年の埼玉の寮にいた頃は、何度となく車で送ってもらったけれど

寮に戻っても家が恋しいとか寂しいとか感じたこともなかった。

当時はそんな親の気持ちなど考えたこともなかった。

だけど、自分が親になってみると、母の言葉が身にしみる。

汗をかくほど部屋の片づけをして、洗濯をして、冷蔵庫を満タンにして

それでもなお出張のついでに寄ってみようと思っているわたしは父親以上に甘いのかもしれない。

2007年5月7日

幼馴染

わたしたちが幼稚園児のころは、私立幼稚園にはスクールバスなどなくて

10分ほど市営バスに乗って通園していた。

わたしは泣いた記憶はないのだが、兄は毎朝泣き泣きバスに押し込められていたらしい。

そんな兄のバス通園仲間には、それぞれ2歳下の弟がいて

男の子4人、女の子2人、合計6人の子供たちはとても仲が良かった。

その後、1家族は仕事の都合で引っ越してしまったのだが

夏休みになると泊まりに来たり、キャンプに出かけたり、家族ぐるみのお付き合いはずっと続いていた。

子供たちが大人になるにつれて、だんだん集まることが減り

毎年の年賀状で「またみんなで会いたいね」という挨拶だけになっていたが

皮肉にも昨年、父の葬儀で顔をあわせることとなった。

「母を励ます会」と称し、久しぶりに3家族で旅行に行こうと決まったのはKくんの発案だった。

全員の予定を検討していたら、なかなか集まれないだろうから

日程を決めその日に出席できる人だけ参加すればよしというわけで

我が家からは母と兄とわたし、

Y家からは幹事のKくんと日帰りするおばさま、

W家からはおじさま・おばさま・Mちゃん・Mちゃんの娘のRちゃん、

合計9名が参加することになった。

 

Sくんの20歳の誕生日会に招待され新宿に集まったのがたぶん6人がそろった最後だったと思う。

あれから30年。

この年になると、話題の中心は「傷自慢」「病気自慢」だったりする(笑)

それでも30年のブランクなど全く感じさせないほどずっと笑いっぱなしの楽しい集まりだった。

そういえば。

一番年下だったわたしは、負けず嫌いで元気いっぱいであっても

3つ上の兄たちの行動についていくのはかなり大変で、いつも後姿を追いかけるばかり。

そんなときに後ろをふり返り待っていてくれたのがSくんだったように思う。

大人になって自分ではみんなに追いつけたと思っているが

みんなからみたらやはり「みそっかすの妹」なのだろうか?

と考えると、いつまでたっても年齢差は埋められないのだと笑えてくる。

せっかく再会できたのだから今後は定例会となるよう計画していくのだという。

次回は是非、SくんもNくんも参加できたらいいなと思う。

2007年5月1日

人生の扉

春がまた来るたび 1つ年を重ね
目に映る景色も 少しずつ変わるよ
陽気にはしゃいでた 幼い日は遠く
気がつけば五十路を 超えたわたしがいる
信じられない速さで 時は過ぎ去ると 知ってしまったら
どんな小さなことも 覚えていたいと 心が言ったよ

I say it’s fun to be 20
You say it’s great to be 30
And they say it’s lovely to be 40
But I feel it’s nice to be 50

満開の桜や 色づく山の紅葉を
この先いったい何度 見ることになるのだろう
ひとつひとつ 人生の扉を開けては 感じるその重さ
ひとりひとり 愛する人たちのために 生きてゆきたいよ

I say it’s fine to be 60
You say it’s alright to be 70
And they say it’s still good to be 80
But I’ll maybe live over 90

君のデニムの青が 褪せてゆくほど 味わい増すように
長い旅路の果てに 輝く何かが 誰にでもあるさ

I say it’s sad to get weak
You say it’s hard to get older
And they say that life has no meaning
But I still believe it’s worth living
But I still believe it’s worth living

 

休日は、録画したDVD鑑賞三昧。

ラブコメディでおもしろいのはやはり「プロポーズ大作戦」か。

大好きな女性に想いを告げられぬまま彼女の結婚式に出る羽目になった男が

過去をもう一度やり直すチャンスをもらったことで

他の男性に奪われてしまった彼女を取り戻すべく奮闘する話。

その瞬間にはきっと自らが最良の選択をしたはずなのに

もし違う選択をしていたらどうなっていたのだろうか? と考えることがある。

誰にでも「もう一度やり直したい」と思う一瞬があるにちがいない。

そんなことを考えながら、NHKの「SONGS」で竹内まりやを見た。

あまり人には言っていないけれど

実は、自分の結婚式で歌ったほどファンであったりする。

50歳を過ぎてもなお変わらない彼女の風貌に驚きながらもしみじみと聴き入ってしまった。

 

わたしも、こんなふうに輝く50代を迎えることができるのだろうか?

やり直したいと思っても、ドラマのように妖精が目に前に現れてくれるはずもなく

「老い」に対しての不安が付きまとい始めた昨今

新品のデニムをうらやむのではなく、味わいのある褪せた色を誇れるように

後悔のないよう毎日を一生懸命生きるしかない。

2007年4月29日

過保護

今日のイベントに参加するため、娘はインクジェット用紙が必要だった。

引越しの荷物の中にあったはずらしいが行方不明だというので

わたしが帰るときに駅まで送りがてら買うと言ったのに

「もう遅いから、わざわざ送ってくれなくてもいい」と断り、近所のコンビニを探すように勧めた。

ところがインクジェット用紙はなかったそうで、かなり困ったようだ。

どうもわたしは過保護すぎるらしい。

まだ21時なら人通りも多いはずなのに

また過去にももっと遅い時間に出歩いていることだってあるはずなのに

駅からまた1人でアパートに帰すことがかわいそうな気がして心配でならない。

1人っ子だから、なんでも1人でできるようになってほしいと思いながらも

親元から通わせればよかったと思ったりもする。

今日はマンションの配管洗浄工事があって、どうしても帰らなくてはいけないと昨夜は思っていたが

こんなことなら泊まってきてもよかったのに・・・と、ちょっぴり後悔している。

突き放したり、抱え込んだり、親とはなんと勝手なものなのだろう(笑)

2007年4月15日

改善意識

先週、部長から言われていたことがある。

「どうもむこうのほうが献立がいいように思えるんだけどな。 なんだか、おいしそうにみえないんだよ。

たまには出かけていって参考にしてほしいんだけれど・・・」

むこうというのは、近所にある別のクライアント先の食堂のこと。

そこには専任の栄養士がいるので、献立は彼女に任せている。

部長の言い方は、まるでわたしと彼女とを比較してわたしの献立が劣っているような印象をうけたので

実はかなり凹んでいた。

実際昨日衛生教育ついでに見てみると、わたしの立てる献立のほうが品数が多いことは一目瞭然。

売価がちがうのだから当たり前のことだ。

では、何故ここの献立は見劣りするのか?

わたしは、自分のイメージしたとおりの料理ができていないと

目に余るものは、野菜の切り方から味付けにいたるまで必ず注意をし、改善をお願いする。

パートの盛り付け方が悪ければ、やり直しをさせる。

しかしそんなわたしの指摘は、作り手のプライドを傷つけ苦々しく思うらしく

あまり改善されたとは思えないことが多い。

生姜焼きなのに、生焼けと思うような白い色をしていたり

含め煮なのに、煮しめたような真っ黒な塩辛い煮物だったり

蒸してほしいのに、揚げてあったり

味が固定しておらず作るたびに違う味だったりする。

栄養士の立てるメニューを生かすも殺すも、調理師しだいというわけだ。

つまり、見劣りするのは作り手の差・・・?

幸い、定例会議でも最近は食事に関してのクレームも減少している。

こういう現状だからこそ、今ある問題点は改善するべきだと思うのだが

「そんなことは時間的に無理。」

「何回説明してもできないから、あきらめた。」

「それを、ここのパートができると思う?」

「もともと開発が無理な契約をしたから悪い。」

などと、わたしの提案をことごとく退ける。

配食時にパートさんの動きを見ていて、確かに器量不足を感じる人もいる。

だけどそこをうまくカバーしていくように考えなくてはいつまでたっても改善はされない。

とりあえずやってみよう!って何故ポジティブに考えないのだろうか?

そのくせ、事務所に入ってきてはあれこれ話しかけてくるので

仕事に集中したいときには、正直うざい。

わたしは自分がわがままであることも、大人げないことも、十分に承知している。

無理なことを言っていると自覚もしている。

だけど、あえて吼えてみる。

一度でいいから、素直に人の話を聞こうという姿勢はないのか!

あん?

2007年3月23日

真の教育とは

卒業のシーズン。

新しい環境へ飛び出す若者へ、エールを送ろう。

 

いつもお邪魔しているサイトで考えさせられたことがある。

ことの発端は、お嬢様のスカート丈。

あまりにバカらしいことを四角四面にしか対応できない教師にますます不信感を募らせた。

いつもなにかあると思うことは、学校側の対応のまずさ。

企業なら危機管理がなっていないと社会的信用はなくなるはずなのに

閉ざされた世界のために外に聞こえてこないのはうらやましい環境だ。

学校での出来事にはわたしも何度も怒りを覚えたことがある。

体育の授業で逆立ちをした娘の足を受け止めなかったことで

靭帯損傷という怪我をさせられたときも、相手の親は知らないまま。

教師も「お詫び」ではなく、事務的な報告でしかなかった。

本番はグラウンドで行なうからと、体育館の床にマットも敷かずに組み体操をさせていたというのに。

中学の修学旅行で、班の子に仲間はずれにさせられたときも

1人で歩かざるを得ない状況であったにもかかわらず

通りかかった教師は「みんなを捜せ」と突き放し保護もせず

抗議しても逆に娘に問題があるというような発言で謝罪はなかった。

見知らぬ土地で、1人泣きながら拝観もせずに探し回った娘の心細さ

挙句に「はぐれたことにして」という班の子の強要。

教師も班の子の親も、娘の痛みを当然知らない。

弱者は、泣き寝入りするしかない。

 

わたしは、挫折も知らず出来ない子の気持ちなどわからない者に

教育など出来るはずもないと思っているので、もともと教師に期待などしていない。

先生、先生と言われて、他人に頭下げるなんてことは絶対しないし上からしかものを言えない。

しかし、その態度が全ての生徒、父兄に共通であるのならばいいが

どうも相手によって態度を変えるのがわかるので、さらに反感を買う。

過去に尊敬できる教師になど数人出会えたらいいほうか。

本当に「教師」になりたくてなった職業ならいい。

とりあえず、大学で教職取ったし、公務員だから生涯安泰だし・・・

みたいなお役所人間に子供を預けることに恐怖すら感じる。

 

学校やクラスメイトに不信感を抱き、勉強も嫌いだった娘が

大学に行ってから「勉強が楽しい」と笑顔で真面目にやっている姿を見るにつけ

真の教育とはなんぞや?と思う。

2007年3月17日